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スコットランド-“海に抱かれた”キングスバーンズ・ゴルフ・リンクス |
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新生リンクスの探訪
第4回
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旅の始まりはジャズクラブから 私達のBRITISH ISLES (スコットランド・アイルランド・イギリス) へのゴルフの旅はいつもロンドンの「ローニー・スコッツ・ジャズ・クラブ」から始まる。夏のシーズンには世界のトップ・プレイヤーが演奏していて、ジャズに未熟な私でも感動するパフォーマンスばかりだ。
ローニー・スコットは1927年ロンドン生まれ。生後まもなく両親は離婚、少年時代の苦しい生活環境の中でジャズに出会った。兄についてテナーサックスを吹き始めると天性の才能でめきめきと腕を上げ、10代の後半には英国でトップクラスの奏者になった。ローニーはアメリカのジャズに啓蒙されるが、第2次世界大戦後の間もない頃、英国音楽家組合の排他的規制でイギリスではアメリカ人プレイヤーの生演奏は聴けない時代だった。
20歳になったローニーは、ジャズのメッカアメリカ行きを決行する。サックス奏者として将来を嘱望された若者は、本場のジャズとの接触が自己革命になることなど予想もしていない。ローニーは、ニューヨークでの興奮をこう語っている。
「スリー・デユーセスというクラブで、当時ジャズ界の頂点にいたチャーリー・パーカーとマイルス・デイビスとの競演に深い感銘を受け、想い出深い夜となった。演奏を終えたマイルスはその足でディジー・ギレスピーのビッグバンドに飛び入り、トランペットを奔放に奏いて観客を熱狂させたんだ。マイルスが圧倒的だったのは言うまでもない。そして、私の心に宿ったのは、このように開放的な演奏の場をプレイヤー達に提供できるジャズクラブを持ちたいという、まさに電撃的なインスピレーションだった」夢を追う男、ローニー・スコットが自らの名を冠したジャズクラブをロンドンに開店する12年前のことだ。
その後、ローニーは豪華客船クイーン・メリー号でバンドの大仕事で一稼ぎ。兄弟のように親しくしていたピート・キングという若いサックス奏者と組み、1959年ローニーが32歳の時に、チャイナタウンの一角の地下室にジャズクラブを持つことになる。「Ronnie Scott’s Jazz Club」の誕生だ。
ローニーとピートが先ず手がけたのは“規制”を取り除き、アメリカの友人達を英国に招くことだった。交渉ごとに優れた才能を持つピートが、英国音楽家協会とアメリカ音楽家協会を相手に規制解除に挑戦。「私の作戦は、イギリスのトップ・プレイヤー、タビー・ヘイズをニューヨークで、アメリカのズート・シムズを英国で交換演奏をさせる、という提案だった。
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そして、1961年11月、世界的に名声を誇るズート・シムズが“ローニー・スコッツ”で演奏を行った。今では考えられない話だが、この試みはジャズがアメリカから世界に飛翔、わが国のジャズ界にとっても革命的な出来事だった」とピートが回想する。
やがて規制は解除され、ニューヨークから親交を深めたマイルス・デイビスを始めとして時代を風靡したジャズメンがやってくる。ルイ・アームストロング、スタン・ゲッツ、ビル・エヴァンズ、ウエス・モンゴメリー、コルトレーン等々。著名なプレイヤーでロンドンに来ないものはいなかった。時を待たずしてこの小さなジャズクラブは、「ローニー・スコッツで演奏しなければ世界的ミュージシャンとして認められない」とまでの名声を得、1965年に現在のソーホーの店に移って来た。 |
 45年の歴史を誇るジャズクラブ
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眠りから目覚めたキングスバーンズ 英国で必ず訪れるジャズクラブと同様に、私がスコットランドでプレーするコースは、聖地セント・アンドリュースだ。このゴルフ誕生の街から南東6マイルにあるキングスバーンズ・ゴルフ・リンクスは、11世紀にスコットランド王のキング・マルコムがセント・アンドリュース周辺で納税された穀物を集積するためのバーンズ(納屋)があった村で、バイキングの襲撃を防御するための城郭の一部でもあった。
このゴルフ場の歴史は、1793年に地元の男達が海岸線の砂地を利用して9ホールを造りプレーしたことに始まる。ネルソン提督がウォータールーの海戦でナポレオンを破った1815年には、「キングスバーンズ・ゴルフ・ソサイアティ」が設立されていて、年代順でいえば世界で11番目に古いクラブとなる。
R&Aの理事であるアーサー・モリス氏がキングスバーンズの歴史を語ってくれた。「第2次世界大戦中ドイツの空爆を迎撃するため、ゴルフ場は戦闘機の滑走路に変えられ、この歴史あるコースは消滅しました。40名ものメンバーはコースの再建を何度も試みますが、戦後、政府からでた補賞金ではとても足りず涙をのみます。そして、アメリカのマーク・パーシネンというコース開発者が登場する2000年まで、ここは眠り続けました」
カリフォルニア出身のコース・デザイナー、カイル・フィリップスはこの北海の海岸線を数ヶ月歩き、構想を練った。開発者の要求は、「18ホールの全てから海が臨め、数百年を経た自然のリンクスの雰囲気を持ち、新世紀に誕生する世界一美しいコースとすること。これを達成する為なら予算の制限はしない」
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 左の岬の突端にグリーンが望める
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豊富な砂丘と土壌の存在は大いに役にたったが、想定デザインを創造するために、30万立方メートルもの土を動かした。こうしてミレニアム新年に、戦略性の高いマンメード・コースが誕生。北海から打ち寄せ岩礁に砕ける波と海の香り、広大な丘陵のうねりと牛をも呑み込む巨大なバンカー群、そして何よりもここまで来たプレイヤーがゴルフを心から楽しめるフェアな設計。「全てパーシネン氏が想定したコース哲学です。このコースデザインは海岸の大地に彫った近代リンクスの傑作、おそらくスコットランドで最後の本格的リンクスとなるでしょう」とフィリップスが自ら絶賛する。 |
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そして二人の天才の努力が実り、キングスバーンズ・ゴルフ・リンクスは完成と同時に世界トップコースの65位にランクされ、セント・アンドリュース、カーヌスティとともに2001年から始まったダンヒル・リンクス・チャンピオンシップの開催コースとしての栄誉を受けている。
チャンピオン・ティ、7,126ヤード、コースレーティング75.8のコースは、1番から3番ホールまで北進、フェアウエイは左の丘陵地帯から右手の北海に傾斜しているがドライバーを思い切って打てる。3番502ヤード、パー5は2オンが可能。しかし、グリーン右手前には牛が10頭も入る巨大なバンカーが2つも口を開けて緊張を強いられる。グリーンから振り返ると早朝の逆光のなかで壮大なゴルフコースが朝露に濡れて輝いている。感動的な景色だ。このホールはコースの最北端で遠くにセント・アンドリュースの寺院の塔が見える。
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4番から6番はやや短目のパー4でアップダウンの交互するテライン(台地)に打ってゆく。グリーンは砲台グリーンで「ピンがどこにあろうと真ん中に乗せることが攻略の鉄則です」グラスゴー近郊のロック・ロモンド(世界66位)で12年間キャディを勤め、今では「キングスバーンズに勝るコースはない」と絶対の誇りを持っているキャディのボブが攻め方を教えてくれる。8番、154ヤードパー3は名物ホールの1つ。32ヤードの横長のグリーンは右から左に傾斜していて、グリーン中心部でほぼ3メートルがストーンと落ちる設定だ。正面には深いバンカーがあって真っ直ぐは打てないから、右に落す以外攻めようがない。
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 スコットランドではまれに見る空の青さだ
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コースは9番ホールで北転。10番から再び南に向かって12番のシグネチャーホールに到達する。ホワイトティで566ヤード、HDCP2、左手の弓上の湾に沿って登ってゆく豪快なホールだ。私は過去3回の挑戦で一度もパーが取れていない。ボブが言う。「距離があるからって無理に飛ばそうと思わないこと。左の海に打ち込まないこと、ここは4オンでいい。上手く行けばパーが取れる。ボギーで大成功だ」。打ち上げの3打がグリーン手前に届いた。ピンは意地が悪くグリーンの一番奥、キャディが差し出したパターを断り、調子の良いサンドを手にする。パターでは、うねりと曲がりくねった上りの傾斜で、ピンまで70ヤードの距離を寄せる自信がなかったからだ。結果は最悪。硬い土に跳ねられたシャンク気味のショットは、グリーン右のバンカーを直撃。焦りにまみれたバンカーショットは大きく飛び出して奥の石垣を越え、牛の群がる牧草地に消えていった。ボブが一緒に来てくれる。「落ち着け、深呼吸だ」ラッキーなことにボールは草の上に乗っている。5メートルの石垣をかろうじて超え2パットの8。「見事なショットだった。あのロブショットはプロでも難しいショットだ。運が悪けりゃ10は叩いた」ボブが言うとおり。うなずき自らを慰める。 |
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 クラブハウスをバックに18番で仲間達と
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最終の18番ホールは、414ヤード、HDCP4。この難攻不落のホールで、弊誌の土屋編集長は昨年見事なバーディをとり、初めてのスコットランド・ゴルフを75でまとめ祝杯をあげたものだ。淡いグレーのクラブハウスが見える。「ここは思い切って飛ばさないと2オンはできない」今やボブの命令は神の声に等しい。フェアウエイは250ヤード辺りから急な下りとなって小川で切れる。セカンドショットは残り200ヤード弱、谷をキャリーしなければグリーンには届かない。3番ウッドを手にしたとたん「無理です。これで行け」と渡されたピッチングでレイアップ、3オンしたものの再びうねったグリーンに泣かされることになった。 |
PGAの上級デイレクター、サンデイ・ジョーンズ氏のコース評価は、私達の気持ちを代弁してくれている。「ここは私がプレーしたどこよりも、海の眺望を満喫できるコース。伝統的なスコットランド・リンクスの雰囲気を秘めていて、私の意見では、キングスバーンズは世界で最も格調高いプレーが経験できるコースの一つである」 |
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話を「ローニー・スコッツ」に戻そう。 1996年12月23日、ローニー・スコットは突然のように他界。多くのジャズメンの例に漏れず酒とタバコと不眠がたたって、英国は世界に誇るミュージシャン、英ジャズ界の偉大な貢献者を失った。残されたピートは、「ローニー・スコッツ」を世界一のジャズクラブに育て上げるが、ローニーのいないクラブは何かが失われつつあった。
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 ローニーの伝統を引き継ぐクリス・キング氏
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「そして2005年、ローニー・スコッツ誕生45周年に父は店の移譲を決心することになります。後継者のサリー・グリーンは、ピートへの尊敬の表明と名誉を讃えるため“永久プレジデントのタイトル”を提案しました。私達はローニーとピートが築いた伝統を守り、彼らの精神を受け継いで世界中のジャズファンに貢献することを目標としています」「TEE UPの読者の皆様にもゴルフだけでなくローニー・スコッツにも足を運ぶようお伝えください。ゴルフとジャズ、何てエキサイティングな組み合わせじゃないですか」永久名誉社長となったピートの息子で経営を担っているクリス・キング氏が私に託したメッセージである。
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