タスマニア島- バーンボウグル・デューンズ・ゴルフ・リンクス

新生リンクスの探訪

最終回


タスマニアの原住民であるアボリジニ族は、この島にオーストラリアと地続きだったアジアから4万年も前に移動してきたとされている。地殻変動が起きタスマニアがオーストラリア大陸から切り離されると、彼らはこの島に取り残され、9つの部族が共存しながら生きてきたが、彼らの生存の歴史は悲惨なものであった。

アメリカとの独立戦争に敗れた後、新たな植民地を求めた大英帝国は1788年にオーストラリア大陸の主権国になり、大規模な植民地政策が採られた。
「1803年、タスマニアは孤立した島という監獄的な地形から、重罪者と彼らを監視する兵士達が送り込まれ、アボリジニの悲劇はここから始まった」と現代史に残る原住民殺戮を調査したベンジャミン・アドレイが語っている。
「1800年初頭からわずか75年間で、植民地政府は当時6000人いたと思われるアボリジニ族を壊滅的な状況に追いやるのです。ヨーロッパからの病原菌が原住民を死に至らしめましたが、激減の殆どは殺戮が原因です。当時の移民者は男6に対し女性は1人、結婚はもとより性の対象が圧倒的に不公平でした。荒らくれ男達は開拓仕事の後で酒を飲み、当然のように性の捌け口を求め、その対象がアボリジニの女性だったのです。一度始まった暴力はあっという間に蔓延し、連日の女人狩が始まりました。残虐な白人達はレープした後で面白半分に女達を殺し、アボリジニの子供達を公然と誘拐、召使として働かせたのです」

勇敢なアボリジニの男達は女性と子供達を守るために立ち上がり、白人への復讐が始まりました。森の中でのゲリラ戦は原住民にとって有利な戦いでした。タスマニア駐屯部隊は、地の利を得たアボリジの戦士達に翻弄されましたが、急遽派遣された正規軍がアボリジニの部落を本格的に攻撃すると、状況は一瞬にして変わりました。弓矢と小刀では銃を持った白人の敵ではなかったのです。それでも団結したアボリジ族は、集団体制をとり軍隊に逆襲をかけました。結末は1835年にたった300人だけが生き残った、という現代史にまれに見る大規模な殺戮となったのです」こうして4万年前から受け継がれた祖先の土地をアボリジニ族は奪われることになった。

このような血に塗られた歴史があったが、タスマニアは世界でもっとも美しい島だ。「この島の魅力は大自然にあります。島の3分の1以上がナショナル・パークに指定され、世界自然遺産にも登録されている。深い山脈と広大な海岸線、澄んだ空気と肥沃な土地、そして山の湖沼や川の澄んだ水のおかげで、ここの森林でしか生息しない動物や植物の宝庫となっています。ここは世界で最も平和な土地です」とタスマニア観光局は宣伝している。

タスマニアはオーストラリアの南東240キロの海上に浮かぶ島で、北海道と同じ面積を持つ。バス海峡を挟んで最南端の島で、次にある陸地は2000キロ離れた南極大陸である。1642年にオランダ人のアベル・タスマンにより発見され、彼の名をとってタスマニアと言われるようになった。

ローンセストン空港から北東へ1時間走るとブリッドポートという人口1500人の町がある。バス海峡に面したこの町にグレッグ・ラムゼイという熱狂的なゴルファーがいた。彼はゴルフ・アーキテクトの本を読み漁っているうちに、コース設計の虜になる。ブリッドポートの海岸線の砂丘が自分の夢を達成する地形であると確信したグレッグは、弱冠24歳となった2000年に行動を開始する。「サトラーさん、貴方のポテト畑と牧場をゴルフ場にしましょう。あそこはオーストラリアの歴史にないリンクスコースになります。貴方を世界中に名前の知られるゴルフ場のオーナーにして見せます」あまりにも唐突な話にリチャード・サトラー氏は素っ気無く答える。「若いの、私はゴルフをしないし、ましてゴルフ場を造るなんて興味ないね」。

グレッグは、生まれ持った行動力と説得力でオーストラリア最高のコース設計者マイク・クレイトンとパシフィック・デユーンズを完成させ今や世界に売出し中のトム・ドークを現地に呼び寄せる、という離れ業をやってのける。


モダンなコテージがゴルファーを迎えてくれる

「それでも、サトラー氏は首を縦に振らず、コースの実現に更に4年がかかりました。トムも私もあの土地に魅せられていて頭から離れられなかったのです」ドークと共同設計者となったクレイトンが回想している。「オーストラリアには、ローヤル・メルボルン、キングストン・ヒース、ニューサウス・ウェールス、ローヤル・アデレード等の世界に冠たる名門コースがあります。しかし、タスマニアの海に面したこのコースは現存のオーストラリアには見られない一味違ったコースになる、という強い予感があったのです」

問題は、“地の果ての島にコースを造るなんて、気違い沙汰、ここに来るゴルファーなんていない” という一点に尽きた。グレッグは、「サトラーさんパシフィック・デユーンズとここの類似点はそこにあります。彼の地も誰も知らない、誰も行かない土地でした。パシフィック・デユーンズ開発者のカイザーさんがゴルフ場開発の構想を友人達に告げたとき、誰もが“貴方は気が狂っている”と反対したのです。当時1エーカー2000ドルという無料みたいな値段で買い上げた土地は、今や世界中からの予約で満員です」と説得した。
グレッグの熱意に押され、とうとうサトラー氏は決心した。「君達の気持ちは良くわかった。但し、条件がある。バーンボウゲルはメンバー制でなくパブリック・コースにする。何よりもタスマニアのゴルファーが気楽にできるような自由なクラブを造ろうじゃないか」

“世界的に有名なメンバーコースにしたい“というグレッグの夢は砕かれたが、これはグレッグの勝利だった。彼の“タスマニアの名前が世界のゴルフ界に知れ渡る”は殺し文句だった。この土地を愛してやまないサトラー氏の心を知ったクレイトンやドークも心から彼の決断を尊敬した。

バーンボウグル・デューンズ・ゴルフ・リンクスはこうして2004年12月に誕生する。翌年のゴルフ・ダイジェスト誌は世界49位に指名、グレッグの予想どおり世界を驚かすことになった。

我々は、前日の夜に到着したとき、豪雨で翌日のプレーは無理だと断念していた。しかし、ゴルフの神様が味方をしてくれたような無風・快晴となった翌朝、予約したティータイムを無視して一番に出してもらい、世界49位との戦いが始まった。  

1番のティーグラウンドに立つと縦長にうねったデューンズが連続して見える。506メートルのパー5は軽い右ドッグで、なだらかに登っている。砂丘の周りには背の高いブッシュが茂っていてプレッシャーをかけてくる。グリーンはバンカーに囲まれているが比較的大きくオープニングホールとしては寛容なホール、全員がパーで気勢が上がる。

しかし4番ホールはてこずった。300メートルもない短いパー4だが中央に巨大なバンカーが待ち構えている。私は“180ヤード打てば正面のバンカーを越える”というキャディの指示に従ってドライバーで打った。バンカーの高いあごを直撃し、脱出に3打もかかり、キャディから“WELCOME TO BARNBOUGLE” とからかわれる。一方、長距離砲の遠藤・田村両君はフェアウェイ左の2つのバンカーに捕まり泣かされていた。


4番ホール。短いパー4だが、正面のバンカーで悪戦苦闘した難度の高いホール。
設計者のクレイトンは、「私はこのホールが大好きだ。ドライバーの落し場所で、バーディが取れるか、ダボを叩くかの分かれ目になるからだ。海風が強いから運も必要だしね」やっとの思いで高台のグリーンに立つと突然の景観に圧倒させられる。ブリッドポートの町並みと白い砂浜、バス海峡の群青の海原、「ここの眺望はオーストラリア最高級、こんな天気の良い日にこの海を見られるだけで来た価値があるはずです」とキャディ達が我々の幸運を祝福してくれた。

7番、120メートル“トムの小さな悪魔”と名けられたパー3を私達は“絶望のホール”と呼んだ。左は洞窟のように深いバンカー、グリーンは小さくスピンショットで止めないと強い傾斜であらゆる方向へ転がり落ちてしまう。キャディが「プロでもバーディが取れないホールですから、ボギーなら上出来です」と変な誉め方をしてくれた。

8番も息をもつかせぬホールだ。446メートルは追い風でも長い。広大なフェアウェイは中央にある砂丘で左右・上下に分岐されている。上段の丘陵に打ってゆくのがベストだが、最低250ヤード飛ばなければならない。安全な右フェアウェイからの2打目は狭いグリーンへの打ち上げで距離がある。しかも、四角い巨大な砂丘に阻まれたブラインドショットとなっている。結果は想像にお任せしましょう。

バックナインも個性的なホールが連続する。円形にデユーンズに囲まれた181メートル、パー3のグリーンは、「アリスター・マッケンジーがセント・アンドリュースの著書“SPIRIT OF ST. ANDREWS”に書いた理想のショートホールを実現したもの」と賞賛を受けている。16番からは人間の手がまったく加えられていない自然そのもののバーンボウゲルのリンクスが見渡せる。

1978年にオーストラリア・アマチュアを獲った後プロに転向、ツアーで6回優勝したクレイトンがバーンボウゲルを自己評価している。「道具が進化した現代ではこの6200メートルのコースは確かに長くはない。トムと私は距離の長短でなく、“自然の砂丘を利用した戦略性の重視”を設計理念にしました。

あるがままの地形を巧みに利用し、守備の堅いホールを創造するという点で、トムは世界最高のデザイナーです。私達はまたタスマニアの風の吹き方を学びコース設計に取り入れました。ここの吹き荒れる風の中でプレーをして初めて真の難易度が理解できるのです。私が初めてラウンドしたとき、5番、200メートルのショートを5番アイアンで打ちました。2ホール後の7番、120メートルでは同じ5番アイアンを使ってもショートしてしまいました」


ドークの理想を実現した天然要塞のコース。カンガルーは今も生息している。


そして最終の400メートルを越す2ホールは、オーストラリアでもっともタフなフィニッシイングホールと言われている。コースの右側には入り江が流れ込み太陽が水面に輝いている。クラブハウスが見えてきて最後の力を振り絞ってホール攻略に精神集中をする。吹き始めた風の中、18番では全員がパーで今日のプレーをまとめ上げた。「よくパーであがりました。貴方達はベストプレイヤーとしての栄誉を受ける権利があります」バーンボウゲルのキャディは我々の悪戦苦闘のゴルフに最後まで辛抱強く親切だった。

プレー終了後、私達はあわただしく次の目的地シドニーに向け飛行場への道を急いだ。あの時も、また今もこうして書いていても、私はタスマニアを全く知らないという気持ちで一杯だ。何時の日かこの地を再訪、バーンボウゲルをもう一度挑戦した後、タスマニアの山河や海を見たいと思う。そして不幸だったアボリジニの歴史をもっと詳しく現地調査する機会がくることを願っている。

 
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