世界を制したゴルフコース・アーキテクト-ドナルド・ロス

世界を制した
ゴルフコース・アーキテクト
第1回



ドナルド・ロスとパインハースト


ゴルフコースの歴史はスコットランドを原点としますが、それに対し“戦略性”を持たせたのが近代コース・アーキテクトです。そしてその第一人者は、同思想のスピリチャル・リーダーである、ドナルド・ロス氏といえるでしょう。ゴルフ・アーキテクトの第一回は、彼が近代ゴルフに残した、偉大なる功績をレポートします。


パインハーストの
トレードマーク、
パターボーイの像

リンクス・マガジンの編集者で、世界のコース・デザインを分析したディック・テイラー氏の言葉を借りてドナルド・ロスの偉業をお話しします。20世紀の前半、アメリカン・ゴルフの発展に寄与したドナルド・ロスはスコットランド・コースの真髄をアメリカに持ち込んだ。彼は1948年に没するまで、全米オープンが開催されたパインハーストNo.2やオークランド・ヒルズに代表される399もの伝説的なゴルフコースを創造・改修しゴルフ界に君臨し、ロス王国を作り上げたアーキテクチャーです。彼はデザイナーとしての評価が高いばかりでなく、ゴルフ・アーキテクト界の先駆者として1947年に<アメリカ・ゴルフコース設計者協会>を立ち上げ、初代会長に就任。また次世代では、ロスを尊敬してやまないピート・ダイJr.や世界ランカーを3つも創作したトム・ドーク、プレーイング・アーキテクチャーのニクラウスやクレンショー等の弟子達が集まって“ドナルド・ロス協会”を設立。ここではロスのデザイン思想と伝統を継承すると共に、奨学金を提供してコース・デザイナーの育成に力を入れた。


ロスは1872年に北スコットランドのドーノック生まれ。当時のドーノックは人口1200人の小さな町で父親は石工、母は看護婦というそれほど裕福ではない環境で育ったが “学業も大事だがゴルフの仕事に携わる生き方もある”と、土地の名士ジョン・スザーランドに教えを受ける。そこで彼の薦めでロスはゴルフ業を学ぶため、セント・アンドリュースに移り、THE OPENのチャンピオンとして活躍していたトム・モリスの弟子となりゴルフを学びはじめた。

天才的資質の開花

モリスの営むショップで、クラブとボールの製造と修理、ホール・セッテイングとグリーン・キーピング、そしてコース・デザインにも早くから興味を示した。モリスはロスが並みはずれた才能を持ち努力家であることを見抜くと、実の息子のように愛情を注ぎ助手として国内外のコース改修に連れまわった。プレーではモリスとその息子のヤング・モリスには歯が立たなかったが、いつも個性的な表現力を発揮するロスは、次第にホール設定とグリーン監修で、モリス親子を凌ぐ腕前を見せるようになった。

やがて、ロスはスザーランド卿に呼び戻され、20歳にしてローヤル・ドーノックG.C.のプロとグリーンキーパーの職を与えられた。当時としては破格な出世であったが、セント・アンドリュースでの成長を経験した若者には、ドーノックでの生活は次第に物足らないものになっていく。ローヤル・ドーノックG.C.を愛し、度々この地を訪れたハーバード大学のウィルソン教授の助言でロスは人生最大の決心をすることになる。新世界、アメリカへの移住だ。ロスはウィルソン氏からもらった住所だけを頼りに、たった一人ボストンに入港、数時間歩いてウィルソン教授の家にたどり着く。こうして1899年、27歳のロスは、ボストン近郊のオークリーC.C.の建設と運営に挑むことになった。

偉大なるコースの誕生

ノースカロライナの砂丘に最高のゴルフコースを造りたい、という夢を長年抱いていた大富豪ジェームス・タフツとの出会いが、再びロスの人生を大きく変える。1895年のクラブ設立、1901年から始まったロスと彼のチームとの献身的な努力、そしてタフツ家代々の野望によって、アメリカンゴルフの力と美を象徴する8つのコースが創造された。パインハーストと呼ばれる5千エーカーの松の山林を見た時、ロスの心は躍った。今でもクラブハウスには1900年代初期、2頭のロバを操り土地を耕し、シャベルを手にしたロスの写真が残っている。当時のローラーで固めたサンドグリーンから、1935年の全米プロ選手権の直前にはバミューダグラスを使用、その後ベントグリーンを採用するなど、30余年の試行錯誤の末にロスはパインハーストNo.2(現世界ランク18位)をアメリカのトップコースに仕上げることに成功する。さらに1951年にはライダー・カップが開催され、このコースは世界に認められる栄誉をものにした。

「緩やかなドーム状の砲台グリーンはどこから打っても真ん中に乗せなければ転がり落ちる仕掛けになっているし、大きくうねるグリーンはそれまでのどのコースにも経験しえないほど速い。一見易しそうに見えるが、卓越した技術なくしてこのコースを攻略することは不可能。初めは戸惑ったが、次第にここでのゴルフに魅了されていった」と1940年にノース・サウス・オープンでプロ競技に初勝利したベン・ホーガンも絶賛している。1995年の全米オープンではペイン・スチュワートがフィル・ミケルソンに最終ホールで劇的な逆転勝利、2005年には神がかり的なプレーで、マイケル・キャンベルが猛追するタイガーから逃げ切った。パットが3度も砲台グリーンから転がり落ちて怒り狂ったジョン・デイリー。などなど、NO.2での名勝負をご記憶の読者も多いと思う。

ロス創作のサイオトG.C.(オハイオ州・世界76位)で育ち、ロスを敬愛してやまないジャック・ニクラウスによると「ミスター・ロスは最初にできるだけ自然なマウンドを選びグリーンを築きます。グリーン周りには窪地やバンカーを造り、人工的なクリークや池などには見向きもしません。彼の基本理念は“1番ホールは緩やかな挑戦ホールであること。決して難しすぎてはいけない。プレーヤーの1日は1番ホールで決まる。そしてその1日を創造するのがコース・デザイナーの役目” つまり、1番ホールは広いフェアウエイを提供し思い切ってドライバーを打たせる。しかし、グリーン攻略は正確な球が要求され、特にグリーン周りはやや低地になっていてマウンドグリーンに正確なピッチやチップショットを決めなければならない。ホール攻略の最後に腕前を発揮させる。これこそ、ミスター・ロスによる設計の原点と言われるローヤル・ドーノックG.C.(世界15位)の再現なのです」


まさか…、の挫折

ゴルフ競技者として世界最高峰を極めたボビー・ジョーンズは15歳で初めてパインハーストでプレーして以来、ロスとは“チャレンジ・コースの創作者とコースと闘う競技者”として互いに尊敬しあう仲であった。「いつかは、私が考えるゴルフコースを造ります。その時は応援してください」とジョーンズに声を掛けられていたロスは、ジョーンズがジョージアに自分の夢のコースを造る時には、自分のところに設計依頼が来るものと信じて疑がっていなかった。



パインハーストの歴史あるクラブハウス。No.2コースは、
今年で100周年を迎えた。


ところが「ジョーンズはカリフォルニアのサイプレス・ポイント(世界第2位)を設計したアリスター・マッケンジーを、オーガスタ・ナショナル(世界4位、マスターズの開催地)の共同設計者に選んだ。全米オープンが行われる、あのコースの設計に関して、ロスは選ばれなかったのである。当時コース設計者として第一人者を自認していたロスは、静かな怒りの中で、それまで並行して造っていた他のコースの設計を全て中止し、自らの精魂の全てをNo.2の最終プランに集中させたのです」とゴルフダイジェスト誌のコラムニスト、チャールス・プライスは語る。

ドナルド・ロスという人

1935年にパインハーストを訪れ、数少ないインタビューに成功したガストニア・ガゼッタ誌のジョン・ダー氏の記事がある。「私がオーガスタ・ナショナルのセンセーショナルなオープニングに行ったこと、私がいまだにそのオーラに魅せられていることを察知したロス氏は私をNo.2に連れ出したのです。全てのグリーンがいかにして完成度を高めていったか、砂地バンカーがなぜグラスバンカーに変えられたか、どうしてここに窪地を造り打ち上げのホールにしたか。彼の最高傑作であるNo.2の歴史を、2時間もかけ説明してくれたのです。彼の言葉の端はしに“アリスター・マッケンジーには絶対に負けていない”という強固な自負心を、強く感じました」


1999年、ペイン・スチュアートが
このパインハーストNo.2で行われた
全米オープンの最終ホールで、
5mの優勝パットを沈めた瞬間の
有名なポーズ。同年、彼は
飛行機事故でこの世を去った。


ロスは自分に対しても他人に対しても、スコットランドの成功者がそうであるように完全主義者であった。天才、努力家、頑固者.冷酷で意地悪、外交的だが寂しがり屋。彼の評価はまちまちだ。「どれをとっても当っているのです。ただ、彼を知る人たちの誰もが認める共通点は、“ロスは自分が信じたことをやりとうそうした、信念の人”ということです。信念を通す、ということが反発を買うことを知っていても、ロスは決して生き方を曲げなかった。そして、生前のロスは自分の功績や成功を一度たりとも自慢したことはなかった。自分の実績と評価について問われ、彼はこう答えている。“MY WORK WILL TELL MY STORY”「私については作品が語ってくれるはずだ」

当時旅をするには大変時間がかかった。多くの注文を抱えたロスは、いくつかのコース設計は現地を訪れることなく、地形の詳細図を見てブループリントを作成。コースの建設指示書は彼のクルーがロスの意図どおりに造作できるように精巧に指示されていた。「その頃には、フランク・メープルスという稀代のスーパーインテンダーが彼の右腕として建設を指揮していましたから、ロスにはコースの完成度には自信があったのです。しかし残念なことに、これらのコース設計は“メイルオーダー”と呼ばれ、“スコットランドの物まね”と批判されるようになります」と<ドナルド・ロスの発見>を書いたブラドレィ・クライン氏は時代の流れを語っている。


さらに1930年代に斬新なデザインで実績を重ねたマッケンジーと無限の可能性を秘めた新人のロバート・トレント・ジョーンズが人気を博すようになると、「ロスの時代は終焉した」との風潮が始まり、新進アーキテクチャーとの比較を含めてロスへの批判と、逆にロスを擁護する大論戦がゴルフ界に沸き起こる。当人は一言も反論しなかったが、しかし、間違いないなくロスは厭世観と孤独感を強めていった。晩年になって妻を亡くすとロスは自分のだけの世界に入っていく。故郷のドーノックから看護婦を呼びよせ、家に閉じこもって暮らすようになった。パインハーストの人々は時折、散歩をするロスを見かけたがその背中にはかつての力強さは見られなかったという。“索漠とした憂いと失望感”を誰に語ることもなく、3番ホールの脇に今も建つ自宅でドナルド・ロスは静かに永眠する。それは、ロスが最も愛し、精魂を込めたパインハーストNo.2で、1948年のノース・サウス・チャンピオンシップが開催され、アマチュア・ゴルフの歴史に残る名勝負が闘われた直後のことであった。


 
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