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世界を制したゴルフコース・アーキテクト-アリスター・マッケンジー |
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世界を制した ゴルフコース・アーキテクト 第2回
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アリスター・マッケンジー サイプレス・ポイントとオーガスタ・ナショナル
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毎年4月マグノリアの花が満開になる頃、ボビー・ジョーンズが生涯をかけて創造したメ夢の祭典・マスターズモが開催される。この祭典の会場となるオーガスタ・ナショナルの設計者アリスター・マッケンジーの奔放な生涯と、あまり語られることのない素顔を紹介しよう。
アレクサンダー・アリスター・マッケンジーは、1870年に英国ヨークシャー、リーズ郊外に生まれた。医者だった父の影響でマッケンジーはケンブリッジで医師の資格を獲ると、1899年に南アフリカのボア戦争に従軍医として参戦。ボア戦争でマッケンジーが目にしたのは、当時、世界最強の英国正規軍がゲリラに撃ち倒される凄惨な戦闘であった。29年間の平和な人生から突然、死と対面する局面に引きずり込まれ、彼の隠れ持つ才能が開花した。 英国に戻ったマッケンジーはボアのゲリラ戦を分析し、カモフラージュ戦法学を指導した。ボアの将軍クロンジェは、自然・人工の塹壕に数名の兵士を潜ませ、英国軍を撃っては移動、移っては撃つという地の利を得たゲリラ戦法をとった。見事な軍服で進軍する英軍を、ゲリラ軍は枯れた草地と同色にカモフラージュし、少数で有利に闘っていた。このカモフラージュ戦法論は、第2次ボア戦争や第1次世界大戦に貢献し幾千もの兵士の生命を救うことになった。
マッケンジーとゴルフを結びつけたのは、COUNTRY LIFE誌が公募したメパー4デザインコンテストモ。この企画の審査員は、伝説的なゴルファーなどで構成され、世界的に有名なデザイナーが出品することを知ったマッケンジーは、休業宣言をすると忽然と街から消えてしまう。その後の数ヶ月間、マッケンジーはセント・アンドリュースに入り浸り、リンクスの魅力と戦略性を徹底的に独学した。
公募審査会で多くの応募作から選ばれたのは、マッケンジーの作品であった。「彼の名は一躍世界のゴルフ界に知られるはずだったが、彼にはつきがなかった。賞の発表日に、第1次世界大戦がヨーロッパで宣戦されたため、この登竜門から受ける名声や契約の見返りは、掻き消えてしまったのです」とゴルフ作家のジェフ・シャケルフォードが書いている。コース・デザインを芸術の域まで高めようと誓ったマッケンジーの挑戦は、デザイン理論を世界に先駆けて発表したことだ。「ゴルフ・アーキテクチャー」という、簡素ながらコース設計の基本理念と実践を教える指南書は、今もなお、近代ゴルフコース・デザインの古典として高い評価を得ている。
1926年、夢と希望を抱いてマッケンジーが目指した主戦場は、アメリカでも新天地の西海岸である。彼が最も注目したのはサンフランシスコの南、モントレー半島にあるペブル・ビーチとサイプレス・ポイントであった。ぺブル・ビーチは1929年の全米アマチュア選手権の開催を目指し、デルモンテ財閥の最高級コース企画としてサイプレス・ポイント・プロジェクトも進行していた。幾度かの会議の結果、マッケンジーにサイプレス・ポイントのお鉢が回ってくる。彼は特徴のあるギョロ目を大きくウインクして、自分の幸運を喜んだ。「ぺブル・ビーチの壮大さと絢爛さは確かに魅力的だが、サイプレスにはそれ以上のもの、私が求める独創性と神秘性がある。これぞ私が生涯をかけるコースになると一瞬にして信じた」と述懐している。
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サイプレスポイントにて
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1927年にスタートしたサイプレス・ポイント・クラブはわずか9ヵ月後には完成、会員数わずか150名前後、会員のゲストプレーは年に6組のみと規定されていて、ここでのプレーは至難の業。1日平均6組という超限定のゴルフクラブである。
前半は、神秘的な静寂に包まれたサイプレスの樹林帯のレイアトで適度のアップダウンと左右にうねった壮大なホールが設定されている。全コースには白砂の大小のバンカー群や、砲台グリーンが築かれていて緊張の連続と適度な調和感を満喫できる。そして、サンド・デユーンズ(砂丘)の連続パー5から、海沿いの断崖を廻りこんで蒼い海と岩礁を超えて打つ15、16番の連続パー3へ、仕上げはやや短めのパー4の最終ホールと、マッケンジーは大胆な試みをしている。「当初、このコース設定は無茶だ」とデルモンテ財閥の総師モールス氏からクレームがついたが、マッケンジーは微笑んで「お任せください」と引かなかったという、マッケンジーの自信の程が今もメンバー達に語り継がれている。
マッケンジーのコースでは、特異なバンカー設定が難攻不落で他に類を見ない。「発想の原点は何ですか」との質問に「ボアのカモフラージュ作戦で英軍は幾度も罠にかけられた。私のバンカーにも罠をかけてある。バンカーはホールのどこからも見えるように創られているので、球の落し所を考察する必要がある。この緊張感が第一の罠だ。グリーンバンカーは難しく見えるように大胆にカモフラージュされている。普通のバンカーなのにこの罠でプレーヤーの腕が縮むのだ。これを跳ね返すチャレンジ精神を学んでもらいたい。ボア戦争で学んだカモフラージュ戦法、軍隊は何も払ってくれなかったがコース契約に利用できてよかった。私はいつも、クロンジェ将軍に礼を言っているよ」
ボビー・ジョーンズとマッケンジーの出会いは、ジョーンズがセント・アンドリュースでオープンを闘った頃で、再会は1929年のペブル・ビーチ、全米アマチュアでジョーンズがまさかの1回戦敗退をした時だ。マッケンジーが「一度はサイプレス・ポイントに来なさい」といってくれたので、全米オープンチャンピオンを獲った好敵手フランシス・ウイメットと連れ立って来た。サイプレスでのプレーを終えた時、「我が夢のコースの設計を任すのはマッケンジーをおいてない」とジョーンズは決心する。招聘を受けたマッケンジーは、ジョーンズとジョージア州の海岸線や丘陵帯を歩き回わった後、遂にオーガスタの桃畑にやってくる。松の森林と桃の花が咲き乱れるこの丘は「もう待ちくたびれました。早く、ゴルフ・コースを創ってください」と言わんばかりに目の前に横たわり、小川の澄んだ水もしっかりと色を添えていた。二人はしばし言葉を忘れて立っていたが、やがて互いの手をとって微笑んだ。「やっと、見つけましたね」
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オーガスタ・ナショナル12番ホール
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サイプレス・ポイント、パサ・ティエンポ、クリスタル・ダウンズC.C.と立て続けに世界ランカーを世に出したマッケンジーは油が乗り切っていた。この頃に実行した世界一周ゴルフ設計の旅は、当時からマッケンジーの伝説を作り上げていたからだ。オーストラリアで設計したローヤル・メルボルン(世界12位)は、マッケンジーが設計から監修まで手を染めた唯一つのコースとなった。毎年帰るイギリスや親戚のいるスコットランドにはアメリカから持参したスポーツカーのデ・ソトを乗り回して、マッケンジーは順風漫歩であった。「ケンブリッジで学位をとるまで7年もかかったが、その時間も無為にすごさず社交術を磨いたようだ。大西洋を渡る豪華船の舞踊会で優勝するなど、社交界で人を惹きつけるマッケンジーは、人気と実力で世界トップのコースデザイナーになっていた」とシャケルフォードは書いている。
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| しかし、1931年のオーガスタとの契約交渉は大きく揉めた。「オーガスタの実力経営者、クリフォード・ロバーツはマッケンジーの1万ドルという設計代を頑として受けなかった。ここでマッケンジーの人の良さと弱点がでて、いきなり5千ドルに下げてしまうのです。他の収入の予定が沢山あったし、ジョーンズとの友情もあったから、やり手のロバーツとの金銭的な交渉は気が進まなかった」
交渉がまとまった後の双方の動きは早い。次々と原案を描き進めるマッケンジーを見て、ジョーンズは感嘆の声を上げる。「私は、ドクター・マッケンジーの才能に目を見張った。ドクターは手垢にまみれたセント・アンドリュースの地形図を片手に、コース設定とグリーン形状を次々に書いてゆくのです。私には反論も口を挟む余地もなかった。自分が描いていた、イメージそのものだったからです」
1932年の3月、最後の数ホールのデザインを完成した頃から、世界のゴルフ界をめぐる環境がめまぐるしく変化してゆく。アメリカを襲った大恐慌から経営困難に陥ったオーガスタは、結局マッケンジーに契約金を2千ドルしか払っていない。不況の余波を受けたマッケンジーも経済的に壊滅的な打撃を受けるようになる。設計したコースの殆どが工事中止となり、完成したコースからの契約金の支払いもなかった。収入の道を閉ざされたマッケンジーは、新築した家のローンや、派手だった生活の借金を払えなくなり、更に夫人の診療代も欠くようになった。
思い余ったマッケンジーは、オーガスタが完成する直前に、社長のロバーツに書簡を送っている。「この数ヶ月、誰も契約金を1セントとて払ってくれません。家を担保にローンを組みましたがその借金も払えず、家内の手術の医療費にもことを欠きます。どうか500ドル、どんなレートでもいいですから貸していただけないでしょうか」オーガスタが幾ら送ったか不明だが、その1ヵ月後にマッケンジーは再び手紙を書いている。「今はゴルフもたった4本のクラブでプレーしています。たった1個しかないボールは安デパートで買ったものです」
オーガスタが完成し、盛大なオープニング・パーティが催される中にマッケンジーの顔は見られなかった。「オーガスタからは丁寧な招待状は来たが、ジョージアまで辿り着くお金がなかった。それ以上に、彼の気持ちはオーガスタとの人間関係の失望のどん底にあったに違いありません」と友人達は伝える。ジョーンズの要請を請け、知性の全てを傾けて設計した傑作、今私たちがテレビで見るあの磨き上げられたオーガスタの緑の完成を、マッケンジーは遂に見ることはなかった。
その年、サイプレス・ポイントともに、彼が最も愛したパサ・ティエンポの6番ホールに建てた家で、質素だが心暖まる昼食をヒルダ夫人ととった後、マッケンジーは心臓発作で息を引き取った。夫人は、彼の家族がいるイギリスに遺骸を運びたがったが、お金がない状況ではそれもかなわなかった。20人ほどの友人に囲まれ、マッケンジーの遺灰はコースに万遍なく散りまかれる。「そのほうが彼にとって良かったと思われます」と友人達は語っている。
1990年代の初め、親戚のレイモンド・ハドック氏はマッケンジーがどん底の生活から立ち直るために書きあげたが、不幸にも出版されることのなかった「SPIRIT OF ST. ANDREWS」(翻訳名:セント・アンドリュースの精神)の遺稿を発見する。その中にはボビー・ジョーンズの言葉が次のように書かれている。「私はドクター・マッケンジーほどコース・デザインの才能に富み、設計の真髄を極めた人を知らない。ドクターなくしてオーガスタはありえなかった」 やがて、1995年にようやく陽の目を見ることになるこの著書の中で、マッケンジーはサイプレス・ポイントとオールドコースの全てを紹介しているが、オーガスタについてほんの数ページしか触れていない。オーガスタについてマッケンジーが書かなかったのは、コースの完成を実際に見ていないからという意見と、オーガスタは彼の心を閉ざしてしまった、という人達がいる。
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朝もやに包まれたオーガスタ・ナショナル10番ホール
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写真提供:遠藤奏氏
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