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世界を制したゴルフコース・アーキテクト-ジョージ・クランプ |
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世界を制した ゴルフコース・アーキテクト 第3回
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5番ホール。池の岬に小屋を建てコース創作に没頭した
ジョージ・クランプとパイン・バレー・ゴルフクラブ
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世界No.1のゴルフコースは、米国ニュージャージー州にあるパイン・バレー・ゴルフクラブだ。今回は、そのコース創造が最初で最後という稀代のゴルファー、ジョージ・アーサー・クランプの壮絶な物語を紹介しよう。
「種の起源で」知られるダーウインを祖父にもつ、英国の著名なゴルフ・エッセイスト、バーナード・ダーウインはパイン・バレーでプレーをして唸った。「神秘的なまでに深い針葉樹林、サンド・デューンズに貼り付けたフェアウエイ、巨大な砂地とバンカー、そして聳えるがごとくのグリーン、2本の小川と澄んだ池、完璧なゴルフコースだ。アベレージ・ゴルファーなら120を叩くはず。もし彼等が115で回れたら、孔雀が羽を満開にするくらいに喜ぶに違いない」。初めてのプレーで、7番までパープレーできた後の307ヤード短い8番ホール、バンカーからバンカーへ渡り歩き、このホール16打を叩いてダーウインはギブアップ。パイン・バレーは全英アマ上位の常連に“世界屈指の難コース”と言わしめた。
この地への旅は、プレーヤーにとって究極の試練との闘いになるはずだ。その昔、鉄道の駅を降りたゴルファー達は不思議な看板を目にする。「ようこそパイン・バレーへ。ここでは一切の幸運と希望を捨てることです」クランプから皮肉を込めた歓迎のメッセージだ。 街中から工場地帯や鉄道の線路を越えて森の中に入ると、突然の別天地、パイン・バレーの世界に迷い込む。
古風で質素なクラブハウスの壁に、クラブの創設者でパイン・バレーの開発リーダーであったクランプの等身大の肖像画が飾られている。1871年フィラデルフィアに生れ、父親から譲られたホテル・コロネードのオーナーとして、優雅な生活を送っていたクランプがゴルフと出合ったのは1890年の後半。フィラデルフィア・ゴルフクラブの会員になると凝り性を発揮して、たちまち当地を代表する選手となった。「彼がゴルフの狂気に取り憑かれたのは、1910年に敢行したスコットランドやイギリス、ヨーロッパ大陸にまで足を伸ばした数週間の大旅行だった。この旅は彼の人生を変えることになります。クランプが“自分のコースを創る”という思いの虜になったのは、宿命としか考えられない」パイン・バレーの研究家、ジム・フィネガン氏がエピソードを書き残している。
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 5番ホール、ここでダーウィンは16打を叩いた
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帰国後、クランプは旅行中に描いたコースの候補地を探し始める。フィラデルフィアのゴルフ狂達が冬でもプレーができ、自らの夢が叶えられる土地だ。彼には子供の頃よく父親と狩猟に行ったニュージャージーの山中の記憶があった。時を経ず、クランプは自らの運命を決める森に到達する。そこはかつてインディアンの狩猟場で、鬱蒼たる松林に囲まれた砂地にブッシュが密生するうねった荒地であった。「こんな荒地はやめろ」と猛反対するゴルフ仲間に耳をかさず、クランプは184エーカーに当時としては莫大な25万ドルを払った。
フィラデルフィア財界の名士で、後に全米ゴルフ協会のプレジデントになるハワード・ペリンを理事長にして、ゴルフ仲間141名を集め、クランプは「パイン・バレー・ゴルフクラブ」を発足した。「彼自身がグリーン・チェアマンに納まったのは、“設計と工事は自分が責任を持つ”という強い意志の現われだった。彼の決断の速さと異常なほどの行動力に仲間達は圧倒され、ついて行かざるを得なかった」とフィネガン氏。
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クランプは、クラブ運営を仲間に任せると、山中にテントを張り住み着いてしまう。旧約聖書の聖人が大自然にインスピレーションを求めるがごとく、日暮れまで森を歩き回り、夜は石油ランプの下でコースとグリーンの構想を練った。レイアウトの原案ができあがると、スコットランドのミュアフィールド(世界7位)や北アイルランドのローヤル・ポートラッシュ(同12位)の設計で世界に名を馳せたハリー・コルトを招聘する。壮大な荒地とクランプの理念に感銘を受けたコルトは「ここは疑いもなく、アメリカで最高のコースになる」と確信、自らも最高傑作を創ろうと心に決める。二人が目指した理想のコースは、クランプが英国で最も感銘を受け、コルト自身が深くかかわったロンドン郊外の名門、古典的なサニングデール(世界46位)であった。
クランプがコルトに伝えたのは「世界で最も難しく、究極の難易度を備えること。1つのミスショットが次のトラブルとなり、脱出不能にすること」一切の妥協を許さないコース設定だった。「世界一を創る」という目標で同意を見たが、二人の考えには大きな違いがあった。クランプは、「グッドショットには恵みを与え、バッドショットには過酷なまでのペナルティを課す」と言い張り、コルトは「上級者には過酷でもアベレージ・ゴルファーには寛容であるべき」と反論した。特にバンカーの位置決めは大きくもめる。コルトはプレーヤーが逃げられるスポットを提案したのに対し、クランプは断固として拒絶した。「逃げ場のあるホールを造るつもりはない」クラブの理事達にも宣言している。「私たちの使命は、浮ついたレジャーゴルフのかけらもない、限りなく過酷でチャレンジに徹したコースを造ることだ。18ホールを終えたときのプレーヤーの落胆と傷心を私は常に念頭において設計する。“困難を克服するゴルフを学ぶこと”それこそがパイン・バレーの存在目的である」
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1913年初頭に工事が始まると、クランプは5番ホールとなる池の畔に小屋を建て、全ての工事を監修している。ウインチと馬と人手で山を削る作業は困難を極め、5万本に及ぶ松を伐採していった。1ホールが完成する度に、クランプは球が擦り切れるまで試し打ちを繰り返した。何度も打つうちにフェアウエイの広さや曲がり具合、バンカーの位置決めが明確にわかってくる。「歴史に名を残したアーキテクト達の多くは図面を引いた後は工事請負人に任せっきりだった。その後コース改善のために、何人もの手が加えられ今に至っている」アリソン・バンカーで有名なCH・アリソンの訓話だ。「私が手を入れたら、パイン・バレーの尊厳は消滅するだろう。デザインのフレームはコルトだが、ここにはクランプ氏の深い造詣とスピリットが満ちている」とアリソンは賞賛を惜しまなかった。クランプの妥協を許さない執念が、既に完璧なゴルフコースを創り上げていたのである。
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古風で質素だが、格式のあるクラブハウス
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1916年、1年半で完成させるという建設計画は突然のように頓挫してしまう。今日のような高い灌漑技術がない時代のこと、砂地に土を盛り上げ、貼り付けた芝が夏の強い日差しで枯れてしまったのだ。肥料を与えて根つけに成功しても、大雨が降ると流されてしまった。それでも3年の試行錯誤の末、クランプは11番ホールまで完成させた。しかし、フィラデルフィア近郊にメリオンGC(世界11位)が完成し、全米アマチュア選手権が開催されるとパイン・バレーのことは忘れられてしまう。特に資金不足のクランプにとって痛手であった。更にその翌年、アメリカは第一次世界大戦に参戦し、ゴルフ界は大打撃を蒙ることになる。クランプは14ホールを完成させていたが、工事は中座され大きな試練と向かいあう。土地代の他に20万ドルもの自己資金を使い果したが、自尊心の強い彼は友人達に支援を頼んでいない。クランプは、工事再開の目処がたたないまま昼はコースを回り、夜はストーブ脇の机に設計図を広げ、残り4ホールの最終案を練った。彼は、何万回ものパットのイメージから生まれたグリーン形状を数百枚の図に描き出し、至難のアンジュレーションを創りあげていった。その頃、小屋を訪ねた友人達は、夕方になると5番ホールの池の畔に立って鳥に餌を与えるクランプの背中がひどく寂しそうだった、と回想している。
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クランプが猟銃で自らの頭を撃ちぬいたのは、1918年2月24日早朝のことだ。その前日、彼は親しい友人達を訪ねている。「久しぶりに身奇麗で、昔話を楽しんで帰りました。辛い時期なのに、平和で楽観的、かつ冷静に見えた」との思い出が寄せられている。ゴルフ仲間と家族のショックは大きかった。彼等は、クランプが財産を使い果し、これ以上工事を進めることが出来なくなったことを知りながら支援しなかった慙愧の念に悩まされた。少し前に山小屋から街に帰ってきたクランプの心境を、誰も理解しようとしなかった。そして、彼の死は「歯の治療がうまく行かず苦しんだ挙句の自殺」と発表される。「馬鹿馬鹿しい話ですが、そんな発表をすること以外に彼等自身を慰める方法はなかった」とフィネガン氏が疑念を呈している。
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“クランプを無駄死にさせてはならない”誰も口には出さなかったが、メンバー達の心は一つになった。クランプの従兄弟が工事再開の重責をかってでると、彼等は資金を集め、名門メリオンGCをデザインしたヒュー・ウイルソンを呼び、コースの完成を急いだ。こうしてクラブ創設以来7年後の1920年にパイン・バレーは完成する。クランプの死後2年が経っていた。ようやく全貌を明かしたパイン・バレーのレイアウトには、クランプの緻密な計算と演出が配置されていた。パー3は4つ。ショート・ミドル・ロング・アイアンとウッドをそれぞれ使う長さに設定されている。パー5は2つ。2打でグリーンを捉えるのは不可能だ。12ホールあるパー4は、運の良いドライバーショットがフェアウエイに残っていれば、2打目はピッチショット、ピッチ・アンド・ラン、ミドルとロングアイアンを駆使する4とおりの攻め方が用意されているが、二つとして同じ攻略法はなかった。
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針葉樹とバンカーに囲まれた神秘的な14番ホール
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コース全長6,699ヤードは、当時としては長い方である。驚くべきはそのスロープ153の高さで(レーティング:73.5)、パイン・バレーが“世界で最も難易度の高いコース”と評価されるのに時間はかからなかった。世界ランカーをいくつも造った天才アーキテクトのトム・ドークはクランプから多くを学んだという。「クランプ氏の作品は土地の選択が圧巻である。深い森と巨大な砂地に見事なまでにフィットした池と小川。そしてグリーンの魔術的な難しさは他に類を見ない。彼が生きてコースを見たら、きっと満足することを信じて疑わない」と尊敬の念をこめて評価している。ウォーカーカップなどの数々の試合が開催されたが、その後メンバーの希望で大きな大会は開催されなくなった。「有名である必要はない。我々が静かにゴルフを楽しめれば、それで結構」こうしてパイン・バレーはクランプの願いどおり、孤高のコースになった。
偉大なアーキテクトにして、詩人のAWティリングハストが鎮魂の辞を奏している。「多くの賛辞を得ても、語るべきキャリアは何も残さない。強い絆で繋がれた父親とは早く死に別れ、妻を亡くし、子供もいない。彼を愛す多くの友達はいても、生活はいつも孤独。ともに住んだのは、赤子のように懐いた犬と池の畔の水鳥だけ。クランプの生き甲斐はパイン・バレー、46年の人生を奪った夢は、今も針葉の森に風のように生きている」
90年を経た今日に至るまで、凍る冬の朝に命を絶ったジョージ・クランプの心境を知りえる手段はない。私たちが唯一知っていることは、彼が自らの命と引き換えに世界の頂点に立つパイン・バレーを創造したことだ。
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巨大なサンドディーンズがパインバレーの特徴だ
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写真提供:遠藤奏氏
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